私には、心を惹かれ興味が尽きない哲学者がいました
若くしてあの世に逝った池田晶子
私は、彼女の思想すべてに同意し、称賛するしかないのです。
彼女は、私たちの生活の場で生起する色んなことがらについて、分かりやすい言葉で心理に投影させていたのです。高等なことを解説しているのでありません。しかし、そこに「人間」のあるべき姿をのべていたのです。
たとえば、彼女の著書『魂を考える』(法藏館)の中には、
こんな言葉があります。(p17)
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科学という知の一形態は、それ自体としては、知ることへの純粋な
欲求である。しかし、それが、哲学的反省を経ることなく、そのまま
技術として現実へ適用されるとき、人は過(あやま)つ。
たとえば、臓器移植という技術、あれを最初に誰が望んだだろうか。
誰があれを必要としただろうか。決して患者ではない、ここで間違え
てはならない。患者は、あのような技術がなかった頃、自身の病と生
死とを、そのようなものとして受け容れていたはずなのだ。天命を知
り、自然に従ったはずなのだ。しかし、所与のものとしての技術の存
在を知り、患者はかえって迷うことになる。これは幸福なことなのだ
ろうか。少なくとも私には、そうは思われない。私にとって、生存す
ることそれ自体は、求められるべき価値ではないからだ。「簡単便利
な臓器移植」、こんなに人間を馬鹿にした話はない。しかし、事態は
確実にその方向へ動いている。
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哲学的反省を経ることなく、そのまま技術として
現実へ適用されるとき、人は過(あやま)つ。
この言葉の意味は、重い。この現実世界を見るとき、ただただ頭
(こうべ)を垂れるしかありません。
「臓器移植」に限らず、現代という時代を闇に包んでいる「自動車」、
「原爆」、「ミサイル」、「原発」……すべてに通じているのです。
=★誤った臓器移植(3)と併載
(記 2020.6.23 令和2)